こんにちは。今回で1999年ダイエーホークス再現記事はラストになります。
こんにちは。以前から作っていた1999年福岡ダイエーホークスを作成したので、この記事で公開したいと思います! 未公開の選手記事はチームをアップし次第随時更新していく予定です。 パワナン[…]
今回は個別記事で扱っていない野手の選手紹介です!
※記載は背番号順です。
捕手
39 内之倉隆志
鹿児島実業高校→ダイエー
<1999年成績> 12試合 .200(10-2) 0本 0打点
かつて甲子園を沸かせた超高校生級スラッガーもプロ入り後は捕手に転向。だが確実性の低さと太りやすい体質が災し、吉永や城島の牙城を切り崩すことはできなかった。
それでもキャッチング能力は長年の鍛錬により高度なレベルに到達。引退後は20年近くブルペン捕手を勤め続けている。
39 川越透
兵庫商業高→大阪ガス→清水商店→南海・ダイエー
<1999年成績> 1試合 .333(3-1) 0本 0打点
草野球からプロの世界に飛び込んだ異色のキャッチャー。1990年代中盤は「打てる2番手捕手」として一軍出場の機会を得るも、通算1割台の盗塁阻止率がネックとなり正捕手獲得はならず。
1999年も二軍では3割近い打率を残すも、守備の不安は拭えず出場はわずか1試合に終わった。
46 坊西浩嗣
県立岡山南高→三菱重工三原→ダイエー
<1999年成績> 9試合 .427(3-1) 0本 1打点
ダイエーの2番手捕手と言えばこの人の印象も強いのではないだろうか。こちらも通算盗塁阻止率1割台と肩は弱かったものの、巧みなリードと意外性の打撃でホークスの捕手事情を支えた。
通算打率も出場試合数も決して多くないものの、「控え捕手としてFA権取得」という事実が彼の貢献度を物語っているだろう。
内野手
6 湯上谷竑志
星稜高→南海・ダイエー
<1999年成績> 20試合 .125(24-3) 0本 1打点
80年代後半〜90年代前半のホークス内野陣の中心にいた「ガメやん」。一時低迷もあったが1995年以降は内野のサブとして渋い活躍を見せていた。
しかし1999年は一転して打撃不振に。小久保欠場時の穴を埋めきれず、一気に衰えを見せるシーズンとなってしまった。
※「竑」の字がパワプロに無いため、登録名は「湯上谷宏」名義にしています。
10 本間満
駒大岩見沢高→駒澤大→ダイエー・ソフトバンク
<1999年成績> 9試合 .167(12-2) 0本 0打点
当初は城島健司の1位強行指名の見返り要因と言われた選手。俊足好守が売りだが、入団してしばらくは同タイプの選手が多かったこともあり出場機会に恵まれず。
翌2000年にセカンドの準レギュラーとして87試合に出場すると、ダイエーとソフトバンクの過渡期には主力の一人にまで成長。オールスター出場も果たしている。
65 新里紹也
県立沖縄水産高→沖縄電力→ダイエー→近鉄
<1999年成績> 7試合 .000(1-0) 0本 0打点
松中・柴原ら「反則ドラフト」と呼ばれた1996年ドラフト組の一角。俊足好守が売りの即戦力として1998年には68試合に出場したが、その後は出場機会が減少。
2001年に移籍した近鉄でも守備走塁要因として貢献したが01年限りで引退。地味に3年連続で優勝を経験している、隠れた優勝請負人だ。
外野手
40 脇坂浩二
近代附属高→ダイエー
<1999年成績> 6試合 .222(9-2) 0本 0打点
高校時代は元木大介のライバル。1年目から期待されたものの、主に打撃面で伸び悩み一軍定着は果たせず。
1999年は二軍では.324 6本の好成績を残すも出場機会には恵まれず。若手時代から10kg以上体重が増加しており、かつての持ち味のスピードが落ちたのが痛かったか。
48 西島貴之
道立砂川北高→ダイエー
<1999年成績> 4試合 .000(3-0) 0本 0打点
俊足が武器の道産子外野手。しかし山口裕二・村松・柴原ら同タイプの俊足外野手の影に隠れ、一軍出場はわずかだった。
1999年は二軍ではまずまずの成績を残すも、盗塁成功率.600(20-12)と盗塁技術にやや弱点が見え隠れしていた。
62 出口雄大
神戸弘陵高→巨人→ダイエー・ソフトバンク
<1999年成績> 14試合 .000(7-0) 0本 0打点
故障に悩まされ続けたアスリート型外野手。巨人時代から潜在能力は評価されつつも、あと一押しに欠け続けたままキャリアを過ごしていった。
それでも秋山幸二の引退後は外野の準レギュラーに昇格。2003年の優勝時にはOPS.750超えを果たし、一軍戦力として貢献している。
63 森山一人
島根県立邇摩高→近鉄→ダイエー
<1999年成績> 9試合 .000(4-0) 0本 0打点
上記の出口とともに、俊足強肩ながらもケガに泣かされ続けた外野手。ホークス移籍後は出場機会こそ増えたものの、厚い一軍の壁を乗り越えるには至らず。
引退後は四国アイランドリーグの指導者を11年間も続けた。なお現在は退任している。